2024/06/26 17:24

天才レオナルドが生まれたのは1452年4月15日。イタリア中部のビンチ村。

母はカテリーナという名前が分かっているだけで、名字も、年齢も、姿も、教育の程度も、記録が残っていない。

父は、ピエロ・ダ・ヴィンチといい、記録はあるがあいまいな部分が多い。土地持ちの裕福な中産階級。

レオナルドは婚外子だったが、父にやがて認知されている。

 

父ピエロは早くから息子の並々ならぬ絵の才能を認めていたので、レオナルドが15歳になったとき、フィレンツェへつれて行き、ある画家の工房に入門させた。

レオナルドは早くから絵の才能を発揮し一目置かれたが、絵をなかなか仕上げられない未完が続くのだった。

それは彼の多岐にわたる興味、関心事が常にあったこと、対象の根底にある真実をあくまでも見極めようとする姿勢によると思料する。

そのため未完成の作品により依頼者に迷惑をかけ、目立った実績があげられずにいたのだ。

心機一転、活躍の場を求めてミラノへ移る。人生50年の時代に、30歳でゼロからのスタートを切ることになる。

レオナルドにも心の悩みや焦りが随分あったのだろうね。

 

1482年ミラノへむかう。それ以後20年近くの間、その地で暮らすことになり、これまで勝ち取れなかった名声を得た。

レオナルドの不滅の名声は、彼の芸術のためばかりではない。しかし、それにしても67年の生涯をかけて描いた作品が、わずかに10数点しかないということには驚かされる。

当時何人かが共同して作品をつくる習慣があったこともあり、レオナルドの筆致を見極めるのは容易なことではないことも一因だろう。

 

レオナルドは長い年月、多くの保護者のために仕事をし続けてきた。

フランス国王、フランソア1世の招きがレオナルドにとって一番恵まれたものと思えるのだ。

フランスはレオナルドの活動に寛大で、金払いもよく、命令的な要求は全くしなかったようである。

フランソア1世は、1516年頃彼をロワール河沿いの居城アンボワーズにまねき「王家第一の画家・技師・建築家」の称号を授与する。

その上住み心地のよいクルーの館を彼に賜り、城から曲がりくねった道を800メートルばかりたどって、足しげく館を訪れた。

フランソワ1世は、彼の偉大な才能にすっかり魅せられ、彼の話を聞くのを非常な喜びと感じるようになったと伝えられている。

 

レオナルドが死んだ日、国王は遠く離れたパリの近くにあるサンジェルマン・アン・レイの宮殿にいた。

レオナルドの地位をもっと高く祭り上げようとする人々にとって、彼の作品はあまりにも少なすぎた。

そのため、おびただしい複製や、少しでもレオナルドの作品の影を宿したものは、由緒あるレオナルドの作品として認められるようになった。

世界各地の美術館に、こうした作品が堂々と飾られている事実はあまり知られていないと思う。

これもレオナルドの存在が神秘的世界に包まれている証左かも。

 

最後になりましたが、シャルグランの「モナ・リザ」(仏)アザン社プリント額装品をご紹介させていただきます。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 「モナ・リザ」1503 (仏)アザン社プリント         

額外寸47.5×61cm 額装価額¥22,000(税込)

 

マット紙のみ色違いをご用意しています

 

参考図書 The World of Leonardo (巨匠の世界 レオナルド TIME LIFE BOOKS)