2024/06/26 12:57

ワシリー・カディンスキー(1866-1944)は帝政ロシアのモスクワにうまれ、モスクワ大学で経済学と法学を修めた。

大学の法学教授の就職口をけり、本格的な画家修業のため、モスクワから出てきたときすでに三十歳になっていた。

 

ミュンヘンに出て画家を目指し、自分の持ち前の色彩感覚を伸ばしながら画風を変え、抽象画に到達する。

画家自身がある日、薄暮の中で横向きに置いた自作を見て、わけのわからなさに強い衝撃を受け、抽象画に進むきっかけを得たと告白している。

 

彼は根っからの学者タイプで、よく弁が立ち、理路整然と文章表現できる知識人だった。

「頭だけで理屈をひねり出す、道を誤った不幸な芸術家」ともいわれていた。

しかしこの知的能力が、「抽象画の元祖」の名誉を他に奪われる事態から救う結果になった。「私は悲しくもまた幸福でもある」の言葉にあるとおりに……。

 

新しい芸術を興すのに熱心で、1912年、年刊誌「青騎士」を刊行、ドイツ表現主義の中心的存在となった。

ロシア革命の一時期、母国で美術行政の要職に就いたが、体制的統制が強まった1921年、グロピウスからの誘いを受け、ワイマールのバウハウスに着任する。

 

ナチスによって閉鎖されるまで、デッサウ、ベルリンと移動して同校で教育活動し、その間幾何学的コンポジションなど抽象的概念に到達する。

1933年パリに移住し1944年その地で亡くなる。

その生涯はナチスの時代、ソビエト革命と、まさに歴史の激動の渦中にあったのだ。

まさしく「私は悲しくもまた幸福でもある」との彼の言葉が身にしみる思いだ。

 

米)ブルースマクゴー社プリン

「空の青」1940年  (米)ポスターオリジナル社

イメージサイズ58×78.8cm


「グリーンコンポジション」1923年  (米)ポスターオリジナル社

イメージサイズ66×66.6cm

 

「コングリマリット」1943年  (仏)アザン社

イメージサイズ50×69.6cm

 

「ローズアクセント」  (仏)アザン社

イメージサイズ52×65cm

 

「灰色、澄んだ灰色」1941年  (仏)アザン社

イメージサイズ80×60cm

 

「相互の対応」1942年   (仏)ヌーベルイマージュ社

イメージサイズ81×62.3cm

 

「コンポジション Ⅹ」1939年  (独)アヘンバッハ アート社

イメージサイズ77.3×51.2cm


「音楽室のための陶壁画」1931年  (米)ポスターオリジナル社

マット外寸90×60cm

 

「三つの三角形」1938年  シルクスクリーン (仏)アザン社

マット外寸101×73cm

 

「構成のための習作」1910年  (仏)アザン社

マット外寸42.4×54.5cm

 

「キエフ」1983年  (仏)アザン社

マット外寸56×42.4cm

 

「イエロー、レッド、ブルー」1925年  (仏)アザン社

マット付き外寸54.5×42.4cm

 

「軽妙」1930年  (仏)アザン社

マット外寸24×30cm

 

「高さの緊張」1924年  (仏)アザン社

マット外寸24×30cm

 

「空の青」1940年  (仏)アザン社

マット付き外寸24×30cm

 

「相互の対応」1942年  (仏)アザン社

マット外寸24×30cm  マット付きシート価額¥2,200(税込)

 

「コンポジション」1939年  (仏)アザン社

マット外寸24×30cm

 

「白の上に」1923年  (仏)アザン社

マット外寸30×30cm